その後のご報告 ― 夫に代わって

2004年から続いてきたこのブログですが、本日は私から更新いたします。

夫は2026年2月2日、静かに旅立ちました。

今も朝目が覚めると、最初に浮かぶ言葉は――「さみしい」です。
心の中で思うだけのこともあれば、思わず口にしてしまうこともあります。

偶然にもこの更新のタイミングで、夫の著書のオーディオブックの音源確認の依頼を受けました。
音声で聞くと、文字で読む以上に夫の闘病に対する想いが強く伝わり、あらためて深い悲しみを感じています。

四十九日を過ぎ、この節目に、これまでの経過をご報告させていただきます。

【12月の検査】

11月の診察では、脳幹と延髄にできた腫瘍は正常細胞との境目がはっきりせず、治療が難しい状態でした。
「もう少し塊としてはっきりしてくれば対処できる可能性もある」とのことで、来月の検査結果を待つことになりました。

しかし残念ながら、12月の診察でも状況は同様でした。

診察までの間、何か他に治療法はないか夫の幼馴染の医師に意見をもらい、二つほど候補をもって診察に臨みました。
主治医のM先生に確認すると、一つについては

「あ、だめだめ。そんなのリスクが高くてできるわけがない」

との反応でした。

もう一つについても

「やるのは自由だが、高山さんの発信力を考えると慎重に」

とのお返事でした。

夫は、それを悲しむことも怒ることもなく聞いていました。
どんな思いだったのでしょうか。

その少し前から、あまり多くを語らず、表情も少なくなっていたため、そこから何かを読み取ることはできませんでした。

ただ帰り道、娘が20歳になるまではとずっと控えていたアルコールを

「解禁する」

と言いました。

そこには、絶望や諦めがあったのかもしれません。

その日と翌日、二日続けて近所のイタリアンに行きました。
診察のことなどなかったかのように、いつもと変わらぬ穏やかで楽しい食事でした。

店主は久しぶりに主人が来店したことをとても喜んでくれ、

「車いすで散歩しているところを見かけたよ」
「これからもリハビリ頑張って」

と励ましてくれました。

【入院、そして退院をめぐる出来事】

その後のガンマナイフ治療は、当初は三日間の通院を予定していました。

しかし、その前の検査以降、急速に歩くことが難しくなっていました。
階段を自分の足で降りることができなくなり、布担架を使って玄関まで運んでもらう必要がある状態になっていました。

そこで入院治療に切り替えることになりました。

退院予定日の朝、病院から連絡がありました。
夫が肺炎を起こしているとのことでした。

退院予定は変わらないとのことで、病院へ向かいました。

その道中、訪問医療をお願いしているクリニックから電話がありました。
退院に合わせて酸素の機械を入れる必要があるため、時間調整をしたいという内容でした。

酸素が必要なほどの状態とは知らず、

「このような状態で退院しても大丈夫なのでしょうか」

と尋ねると、

「移送中に万が一のことがある可能性もあります」

との返事でした。

夫に39度の熱があったことは、介護タクシーの方から聞いて後から知りました。

急いで病室に向かうと、夫は

「グワーッ」

という声をあげながら、苦しそうな表情で痰の吸引を受けていました。

こんな状態で退院できるのだろうかと思いながら、O先生と話しました。

先生としては、肺炎は改善方向にあり、このタイミングを逃すと自宅に戻れない可能性もあるため退院を勧めたとのことでした。

本人も退院を希望しており、話もできていたため、サプライズでお見舞いに来てくださっていた方々とも面会しました。

しかしその後まもなくして、酸素濃度が70台まで低下しました。

ちょうど病室に来てくださった執刀医のM先生から

「今帰ったら危ない」

と言われました。

「今日亡くなってもおかしくない状況なので、家族を呼ぶように」

とも言われ、部活動中で連絡の取れない娘を先生に呼び出してもらい、病院に来るよう伝えました。

そこから、病院の勧めもあり、病室で泊まり込みの付き添いが始まりました。
幸い、数日して危機的な状況は脱し、娘は自宅に帰りました。

入院中に夫は、こう言いました。

「遺書を書こうと思っていたけれど、目も見えづらいし、手の麻痺もあってうまくスマホ入力できないから、気づくたびに口で言うことにするね」

結果的に、遺言めいたことを口にしたのは、そのときだけでした。

残された言葉は二つです。

「自分にとって亡くなるということは、痛みや苦しみから解放されると思うと、そんなに悪いことではない」

「たとえいなくなっても、ずっと二人の傍にいる」

決して言葉は多くはありません。
いわゆる遺言書とも違います。

それでも、残された家族はその言葉に後から大いに救われることになりました。

【緩和ケア病院】

年末近くになったところで、O先生から提案がありました。
病院も年末は手薄になること、また家族の付き添いの負担も考えると、自宅近くの緩和ケア病院へ移ってはどうかというお話でした。

夫の中では、緩和ケア病院=死という古いイメージがあったのか、あまり乗り気ではありませんでした。

それでも、O先生の誠実な説明が伝わったのか、あるいは家族の負担を少しでも減らしたいという思いがあったのか、転院に賛成してくれました。

緩和ケア病院では、夫は毎日のように

「退院はいつ?」

と尋ねました。

誤嚥を避けるため、とろみをつけた水やジュースしか口にできませんでした。

「とろみがないものをゴクゴク飲みたい」
「お腹が空いた」

と言われても、

「先生からの許可が下りてから」としか言えず、

素直に「そっか」

と言ってくれる夫に、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

【自宅での時間】

せめて少しでも早く自宅に戻れるようにと、年末から年明けにかけて関係機関との調整を急ぎました。

やがて退院日が決まり、在宅療養の体制を整えました。
福祉用具の担当者さんが褥瘡防止のマットレス、痰の吸引器、点滴棒などを用意してくださいました。
酸素ボンベの会社の方も来てくださり、操作を教わりました。

訪問医療/看護の医師や看護師、リハビリのスタッフ、ヘルパーさん、ケアマネジャーさん、我が家には多くの方が毎日のように訪れてくださいました。1月の予定表はびっしりでした。

一日三回の口腔ケアをし、排せつがあればヘルパーさんと介助をし、熱があれば座薬を入れる。
そんな毎日は、私にとって、やるべきこととやりたいことが一致している時間でした。

夫は普段は声を発することはありませんでしたが、ごくまれに、無声音のような息の音で何かを伝えようとしてくれることがありました。

うれしかったのは、

「いっしょ」

という言葉です。

その一言だけで、夫が何を思っているのかが伝わってくるようでした。

そんな言葉がまた聞きたくて、ずっとこんな毎日が続けば本望だと思っていました。
しかし、その願いは長くは続きませんでした。

呼吸が弱くなってきたのは、亡くなる三日ほど前からでした。

その夜も、いつもと同じように床につきました。
明日もまた朝を迎えるものと思いながら、眠りについたのだと思います。

夜中の一時ごろ、ふといつもと違う気配を感じました。

夫の呼吸を確かめると、息をしていませんでした。

体はまだ温かく、顔面麻痺のため閉じることのできなかった目は開いたままでした。
夫自身も、自分が亡くなったことに気づいていなかったのかもしれません。
それほど、いつもと変わらない表情でした。

予期していたはずなのに、どこか現実味がないまま、その瞬間を受け止めていたことを覚えています。

【葬儀】

夫が生きている間は、考えなければと思いながらも、本腰を入れられなかった葬儀のことを、いよいよ考えることになりました。

葬儀社の方と何度か打ち合わせを重ね、お通夜は特定の宗教に寄らない形、告別式は曹洞宗にのっとって親族のみで執り行うことにしました。

葬儀社との打ち合わせでは、夫がどのような人だったかを尋ねられました。
娘にとっては「ゆかいなパパ」でした。
そこから着想を得たのか、葬儀場の入り口で参列の皆さんをお迎えしたのは、フレディ・マーキュリーの仮装をした夫のシルクスクリーンでした(ブログ冒頭の写真です)。

通常でしたら、お焼香の後、通夜振る舞いを口にして帰るというのが一般的なお通夜の流れです。
しかし今回は特定の形式にとらわれず、夫の顔を見ていただき、少し飲食をしていただいたあとに弔辞をいただく形にしました。
斎場には、夫の好きなビートルズやクイーンの音楽が流れていました。
夫の大学時代の同期が作ってくれた、夫だけのプレイリストです。
遠方で参列できない方々は、Zoomを通して同じ時間をともにしてくださいました。

挨拶は、アクセンチュア時代からの友人、夫が憧れていたカリスマブロガー、わざわざスロベニアから来日してくれたビジネスパートナー兼友人、そして大学サークルの先輩でありビジネス上のメンターの四人からいただきました。

最後は母校である早稲田大学の校歌と応援歌で締めくくりました。
きっと夫も一緒に歌っていたと思います。

参列してくださった方々は、それぞれに夫との思い出を語り、私と娘を励ましてくださいました。
本当にありがたい時間でした。

【最後に】

こんなふうに多くの方々に見送っていただいたのは、身内を褒めるようで恐縮ですが、夫の人柄ゆえだと思います。

夫はその名の通り、最後まで知的で朗らかに生きていました。
病による痛みも苦しみも、夫からその知性と朗らかさを奪うことはできませんでした。
その意味では、夫は病に負けたのではなく、最後まで自分らしく生ききったのだと思っています。

「娘の20歳の誕生日に家族三人で乾杯する」

その願いは叶うことはありませんでした。
夫の無念を思うと言葉になりません。

けれど夫は

「たとえいなくなっても、ずっと傍にいる」

と約束してくれていました。

ですから、娘の誕生日には、やはり三人で乾杯するつもりです。

 

最後になりますが、これまで夫を支えてくださった皆様に、心よりお礼を申し上げます。

そして、このブログはここで一区切りとさせていただきます。
2004年から続いてきたこのブログを、長い間見守ってくださり、本当にありがとうございました。

なお、本記事の投稿にあたり、株式会社オーシャンブリッジの澤社長、大貫様には多大なるご支援をいただきました。心より御礼申し上げます。

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