再発チェックのMRI検査は怖い?病気に対するスタンスの取り方

このブログを読んでくださっているグリオーマ(脳腫瘍)患者のkaeruさんから、コメント欄にこんな質問をいただきました(一部抜粋。全文はこちら)。

私は、再発がないかの3か月ごとの検査がものすごく怖いのですが、高山さんはどのような気持ちで検査の臨んでいますか?差し支えなければ教えてください。

この質問に対して、こうお答えしました(全文はこちら)。

(前略)さて、MRI検査の件ですが、実は僕は全く何も考えずに臨んでいます。あえて言うと、いつも予約時間ギリギリに病院に着くので、「間に合ってよかった!」と考えている程度です(笑)でもその後の診察で先生から結果を聞く時だけは、さすがにちょっとドキドキしますね。でも検査が怖いという気持ちは全くありません。
僕は手術が終わって、先生から結果を聞いた時から、もう自分は治ったものと考えています。その後の放射線治療と抗がん剤治療はあくまで再発の予防的治療と捉えています。その予防的治療もひと通り終わった今は、グリオーマを完全にやっつけたと勝手に思い込んでいます(笑)
あとは、自分がグリオーマになった理由(仕事のし過ぎとそこから来るストレスと疲労の蓄積)を踏まえて、再発させない生活、免疫力を落とさない生活を心がけていけば、再発することもないと勝手に信じて生きています(笑)
だから、MRI検査はなんともないんですよね。結果はよくて当たり前、と思っていますので。それでも結果説明の時にちょっとドキドキしてしまうところは、小心者なのですが(笑)

この返信コメントを書いてから過去のブログ記事を見なおしてみたら、5ヶ月前にこんな記事を書いていました。
▼ドキドキするMRI検査の結果/ブログ読者さんとの出会い

自分としては「再発させないために、仕事のやり方を変え、規則正しく食事を摂り、睡眠時間を十分に確保し、瞑想・イメージ療法も実践し、何より毎日娘と触れ合って癒されているから、再発するわけがない。」と確信しているのですが、それでもやはり検査結果を聞くときは、内心ドキドキしています。

やはり5ヶ月前も今も小心者です(笑)
それはさておき、よく言われる「病は気から」というのは、本当にそうなのだろうと思います。看護師さんや先生たちも、経験的にそう実感しているようです。
病気に対するマインドセットというか、スタンスというか、「気」の持ちようをどうするか、というのは、治療自体と同様に予後に大きく影響するように思います。特にがんのような病気の場合は、がん細胞に負けないための免疫力に、気持ちの面が大きく関わってくると思います。
かと言って、根拠のない無闇なポジティブシンキングは、まさにポリアンナ症候群で、意味がありません。
自分としては、自分の手術の結果治療成績等のデータから推測される現実的な再発等のリスクを踏まえつつ、そのリスクを避けるためにやるべきこと、できることを自分なりに考えて、それを日々積み重ねて暮らしています。そうすれば、再発することはないと信じています。

★闘病記ブログランキングに参加しています。下の病名ボタンをクリックしてくださると、ランキングが上昇し、より多くのがん患者さんに僕の闘病記が届きます。よろしければクリックしてくださるとうれしく思います。4回のがんをがんを乗り越えた経験が、一人でも多くの患者さんに届きますように…

にほんブログ村 病気ブログ 白血病へ  にほんブログ村 病気ブログ 悪性リンパ腫へ  にほんブログ村 病気ブログ 脳腫瘍へ 

「再発チェックのMRI検査は怖い?病気に対するスタンスの取り方」への4件のフィードバック

  1. いつも高山さんのブログには感銘を受けます。私も種類は異なるもののがんを発症し、辛い日々を過ごした経験があるだけに、高山さんが復帰後にお仕事で頑張る様子にはつい応援したくなります。その調子で頑張って下さい。
    ただ今日の記事だけは全面的に同じ思いではなく、私は少しだけ異なる考えを持って病気と向き合っていますので、ご披露しておきます。これは私の個人的な考えですので、高山さんの考えが間違っているということではないですし、こういう別の考え方もあるんだと受け取ってもらえれば嬉しいです。
    私は血液のがんでしたので、手術を受けておりません。またいろいろな理由があり、がんと判定することの難しい状態の中で病状が悪化してしまい「がんでない可能い性もあるが抗がん剤を打つことを選ぶという選択もある」と何だか分かったような分からないようなお医者さんの説明から抗がん剤治療が始まりました。幸いにして抗がん剤は効果があり、後付けで「抗がん剤がこれだけ効いたから結局がんだったと判定するのが一番論理的だ」という説明を受けました。そして抗がん剤を8クール終わった後は(もうこれ以上は打てないので)、治療は終了して検査だけを受け続けていました。先生に「もしも再発したらどうなるんですか?」と尋ねたら「もう同じ抗がん剤は効かないので、自家移植しかありません。自家移植手術ではかなりの失敗(手術が原因で死に至る)もありますが、それ以外の治療法はないと考えます」と言われました。
    抗がん剤の開始前の病状はかなりひどい状態でしたし、抗がん剤も副作用がひどかったので、精神的にもかなり追いつめられました。また退院してからは「転移したらどうしよう?」「再発はあるだろうか?」と思うことも多かったです。でも、ある時に「どうせ人間は望まなくてもどこかで死ななければいけない」と気づきます。
    西洋は知りませんが、日本では「死」をまともに語ることはタブーとされています。自分でもそれまで「自分はいつかはこの世を去らなければいけない」ということをあえて考えないようにしてきましたし、そんなことはずっとずっと先のことだと思ってきました。でも、それがいきなり(本当に準備する間もなく)自分の目の前に現れて、前に立ちはだかります。
    そうなると、今まで考えてもいなかった自分は不安でどうにも仕方のないこととなります。一時は寝ることも難しい状態になりました(もちろん心配している家族の前ではそんなことはおくびにも出さずカラ元気を装いますが、一人でいる時にどっと落ち込みます)。
    …でも、「いつか来る死」を意識した途端にとても穏やかになりました。もちろんやり残したことも多いし、残すだろう家族の、特に子供の先行きも見届けたい思いはありました。でも、それも寿命であれば仕方のないことだと思えるようになったのです。そして(良く言われることですが)残された時間を悔いなく生きることの方がもっともっと大事だということに気がつきました。もう不安におののいて、びくびくとしている時間なんてもったいない、少しの時間であっても前向きに生きていれば良いと考えるようになりました。
    それからは家族の前でも無理をせずに笑顔を見せることができるようになりましたし、訪れる友人からは「がんなのにどうしてそんなに前向きでいられるの?」と問われたこともあります。
    前向きに生きる姿勢は高山さんと似ているのですが、少しだけ異なるのは「自分は大丈夫」と考えるのではなく「もしもダメだったとしても、それは運命だから仕方ない」と考えていることです(それは5年経過した今も同じです)。それからは、検査(私の場合は最初は2週間おき、そして一カ月おき、3年目までは二カ月おきという頻度)の前の不安は全くなくなりました。もちろん今も野菜中心の食事をして、極力ストレスを貯めないように注意してはいます。でも、もしも再発や転移があったとしても、もう抗がん剤の治療はお断りして、人間としての尊厳ある生き方を維持しながら、残された時間を少しでも有意義に過ごしていきたいと感がております。

  2. こうちゃん361さん、いつもコメントありがとうございます。自分の死生観を振り返る上で非常に参考になるコメントでした。
    実は僕自身も「いつか来る死」は頭の片隅では意識しています。最初に「グリオーマのグレード3か4」と診断された時からです。その時に、「自分の命は残り数年かもしれない」という恐怖を味わったと同時に、「自分の寿命は有限である」という当たり前のことに、生まれて初めて気が付きました。
    その後、手術を経て、グレードが3で確定した時に、「残り数年の命かも知れない」という恐怖は当初よりは薄れました。でも当然ながら再発のリスクは残っており、5年生存率の78%という数値を見ると、5年以上生きられる確率が高まったと考えると同時に、逆に5年以内に再発して死んでしまう確率が22%あるとも捉えていて、そのリスクが常に頭のどこかにあります。そしてその22%に入らないように気をつけながら日々を送っています。
    そして「自分の寿命は有限である」ということが初めて体感的に理解できたことで、自分の時間の使い方が変わりました。自分にとって本当に大切なこと、重要なことに自分の時間を使うようになりました。分かりやすい例としては、会食や飲み会にでかける回数が減り、家族と過ごす時間が増えました。また以前は乱読していた本の選び方や読み方が変わり、ネット等からの情報収集の仕方が変わり、仕事の仕方も変わりました。
    僕は病気が見つかったときに、娘が成人するまでは生きようと決めました。あと18年ありますが、「あと18年しかない」と考えています。病気が見つかってから今日まで、あっと言う間のような気がしていますが、それでももう1年5ヶ月も経っています。そう考えると、18年なんてあっという間だろうと思うのです。だから、一日一日を、自分が最も大切にしていることに使いたいと思って生活しています。
    僕は今でも「生」に対する執着が強いのだと思います。そこがこうちゃん361さんとの大きな違いだと思います。こうちゃん361さんは、様々なご経験を経て、生に対する執着を手放されているように思います。僕が以前より参考にしている「サイモントン療法(がんのイメージ療法の一種)」でも、執着を手放すことの重要性が強調されていますが、僕はまだその境地には至ることができていません。もし脳腫瘍が再発したとしたら、全力で次の治療に向かうと思います。「いつか来る死」を頭のどこかでいつも意識しながらも、それをできるだけ遠くに追いやりたいと思っています。「もしもダメだったとしても・・・」とはまだ考えられません。でも、もし再発してしまったら、恐らくこの考え方は大きく変わるのではないかと思います。もちろん、そうならないことを毎日祈っているのですが・・・。
    こうちゃん361さん、すばらしいコメントをありがとうございました。ここに書いたような事柄について、ちょうど最近社員や友人と話したこともあり、自分の考えを整理してまとめるよい機会となりました。重ね重ねありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。

  3. 誤解されやしないかと思いながら書きましたが、さすがに高山さんは良く分かっていらっしゃると感激しました。
    いえいえ私もまだまだいろいろなことに執着はありますよ(笑)!前に「退院した直後は聖人君子みたいだったのにね」とカミサンに言われたことがあります。人間は煩悩を消し去ることはできないのでしょうね…。
    ただ私が高山さんと大きく違うのは、やはり子供が二人とも成人してしまったことでしょう。自分とカミサンだけになると責任はかなり軽くなります。子供の年齢が高山さんの娘さんと同じであったら、当然もっともっといろいろな執着は出ると思います。
    でも、考えないといけないことは「望んでもかなわないこともある」ということです。強い意思を持って病気と闘い、残念にも逝かねばならなかった人たちも過去にたくさんいます。意志だけではどうにもならないし(もちろん私も生を投げ出すことはしませんが)、周囲が納得してくれる生き方をして終わりたいと思うだけです。
    まぁ生きている方向は高山さんときわめて類似だと思います。お互いに頑張りましょうね!私の方こそこのブログを読むことで自分の生き方を見直せるので感謝しております。
    今日は久しぶりに小野リサのCDを聴いて寝ることとします。

  4. こうちゃん361さん、ご返事ありがとうございます。
    まさに僕の「生への執着」は、娘の存在に依るところが大きいと思います。病気が見つかり、数年の命かも知れないと分かった時、自分のことや会社のことは諦めがつくけれど、幼い娘のことだけは諦められない、と思いました。何としても娘が20歳の誕生日を迎えるまでは生きて、奥さんとともに娘の成人を元気にお祝いしたい、と願いました。それが僕の人生における最大の願いであり、目標です。
    「望んでもかなわないこともある」というのも、本当にそうだと思います。そういうことを考える時、僕が高校時代に舌がんで亡くなった父や、今から9年前に2人の幼い子どもを残して乳がんで亡くなった妹のことを思い出します。自分の病気や自分の生について考える時に、時折、父や妹の死のことを考えます。そして、ともに長生きした祖父母が生前、闘病中の父や妹に、「できることなら代わってやりたい」といつも言っていたことを思い出します。そうすると、本当に人生にはどうにもならないこともあるんだということを思い知らされます。そして自分自身の生にもどうにもならない状況が訪れる可能性があることを意識しつつ、でも何とか人生の目標を達成したいと、毎日模索しながら生きています。
    こうちゃん361さん、いつもいつもありがとうございます。ともに納得のいく人生が送れるよう、がんばりましょう!

コメントは受け付けていません。